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動物性愛????は獣姦????と大きく異なる~「聖なるズー」【後編】

獣姦ではなく「動物性愛」この違いは、読まないと解らないかもしれません。前編に続き「聖なるズー(濱野ちひろ著)」の紹介です。

犬の性介護

「いや、ときどきさ、障害者の性について考えるんだ。最近は、人間は誰でもセックスをする権利があるという考えがヨーロッパでは広まってきた。ドイツにはセクシュアル・アシスタンスといって、障害者の性介助をするセックス・ワーカーもいるんだ。性は生の重要な一側面だよ。僕は決して障害者を犬と同じだと言っているわけじゃない。そこは誤解しないでほしい。ただ、犬の性もケアされるべきものではないかと考えているんだ」

エドヴァルドがバディという犬の射精を手伝うのは、パートナーの「イライラ」を感じ取り、共感しているからで、それは性的なケアの一環に思われる。これはエドヴァルドがバディを性的に成熟した対等な存在として見ているからだ。彼は犬の性を軽視しない。エドヴァルドだけでなく多くのズーが同様の行為をパートナーにしている。性という生に欠くべからざる要素をも含めてパートナーを受け止めたい、とズーたちは言う。

ズーは小児性愛は許さない

多くのズーが「ペドフィルは許せない」とまで言う。
ズーたちは

「人間の女児も男児も、幼いうちは性的な目覚めがない。そんな相手に性的行為を強いるのは間違っている。女児や男児の側から欲望することはあり得ないのだから」

と力説する。その裏側にはもちろん、「成熟した動物たちには性的な欲望とその実行力がある」という主張がある。
ペドフィリアのあり方には大人と小児における性欲の非対称があるため、その時点で対等性の成立は困難だ。ズーは対等性にこだわるが、もしもペドフィリアというものが、「自分と対等ではない者/劣位にある者に対する性的欲望」なのだとしたら、ズーフィリアとペドフィリアには非常に大きな違いがあることになる。
問題をすっきりさせる鍵は、やはり対等性にある。対等性とは、相手の生命やそこに含まれるすべての側面を自分と同じように尊重することにほかならない。対等性は、動物や子どもを性的対象と想定する性行為のみに問われるのではなく、大人同士のセックスでも必要とされるものだ。

本当に愛している

ゼータの面々の話は、いささか行儀がよすぎるように思えるのも事実だった。私を警戒して不都合な事は話さないのだろうか、と当初は思った。しかし、じっくり一人一人と向き合うと、彼らが何かを偽っているとは思えなかった。彼らはもしかしたら、究極的な動物愛護をしているつもりなのかもしれない、と感じることもあった。この人々はいつも正々堂々としていて、何かを隠す必要など何一つないと胸を張っているように見える。

ズーは獣姦愛好家とは違う

そのとき話題に上っていたのはズーと「ビースティ(獣姦愛好者)」、そして「ズー・サディスト(動物への性的虐待者)」の違いだ。愛情を持たず、動物とのセックスだけを目的とするビースティや、動物を苦しめること自体を楽しむズー・サディストを、ズーたちは嫌う。
「ズーは、動物を決して傷つけたりはしない。だが世間にとっちゃあ、ズーもビースティもズー・サディストも変わらない。偏見がなくならない のは、その点も大きいだろうね」

ズー・レズのセックス

初めてルナとセックスをしたきっかけは、バルバラがマスターベーションをしていたときのことだったという。

「私がディルド(マスターベーション用のペニスを模した道具)を使っていたら、ルナが匂 いを嗅ぎつけて布団に潜り込んできて、私のヴァギナを舐め始めたの」

バルバラにとって、それは初めての動物との性的接触の経験だった。

「正直、戸惑った。でもそのときすでに私はゼータに加入していたから、いいんだ、悪いことじゃな い と思った。私のモットーは、想像し得るすべてのものごとが現実にはあり得る、というものよ。だから、拒否するのではなくチャレンジしてみたの。そこから彼女とのセックス・ライフが始まった。たまにしかしないとはいえ、彼女とセックスするのは本当に素晴らしい瞬間よ。ズーとしてパートナーのルナと生きているいまは、人生で最高の状態。セックスを含めてまるごと動物を受け入れることは、真に動物を愛することだと思う」

バルバラは満面の笑みでそう言った。

アクティブとパッシブの違いによる理解と不理解

人間と正常位でセックスすることは犬の身体には不自然で、負担がかかるのではないか。さらに、ディルクが言うようにメスの犬を人間とのセックスに「半年かけて慣らしていく」ということが行われているのであれば、それは動物をセックスのためにトレーニングすることではないのか。また、発情期ではなくともメスの犬がセックスをしたがるというのは、私には腑に落ちない。
こういった点は、実はズー同士でも議論になることがある。アクティブ・パートは常に疑問視される側で、パッシブ・パートが追及する側だ。アクティブ・パートは、自分のセックスが虐待的だとみなされるのではないかと言う恐怖にいつも怯えている。

障害者のズー

「おや、見てごらん。えらい犬だねえ。車椅子を引っ張っているよ」
和やかな描写をしたつもりなのだろう、老人は微笑んでいた。ロンヤはむっとするのを隠さずに、即座に彼に言い放つ。
「いいえ、この犬は私を引っ張っていません。私と一緒に歩いているんです!」
ロンヤの怒りに老人は狼狽し、少年の手を引き寄せた。

動物を加えたポリアモリー

「バディは家族なんだけど、ときどき家族以上だと感じるときがある。恋人のような……。私たちの関係は、もしかしたらポリアモリー(複数のパートナーと同時に性愛関係を持つこと)の一種かもしれない」

宮川まとめ

上記すべて「引用」です。引用タグ使ってませんけど。読みやすくしたくて。この本に対する僕の興味はすべてLGBTの問題とジェンダー問題です。Black Lives Matterも関係してるかも。

つまり、日本で「平均的」で「みんなと一緒」が美徳とされる「無個性大好き!」なファックな価値観は、今でこそ疎んじられ「個性」が尊重されるべき時となった。

そこから、性的マイノリティがようやく権利や立場を主張できるようになり、男女平等も(日本はクソ遅いけど)当然となった。

そこで、感じたのは、

では、変態っていないんじゃ?

ということ。

女装趣味も、普通の事となり、バイセクシャルやゲイやレズビアンも当然不思議な事じゃない。性同一性障害の人もいるし、その流れの中には

どういうセックスをしてもいいじゃないか

がある。

となると、個人的に「動物とセックス」というのは、絶対にしたくないけど、それについて「それは動物虐待だ」と思っていた自分の「価値観」が大きく揺らいだのね。

本当にそれは「動物虐待」か?

ってね。それがこの本をアマゾンでポチった理由です。そして、読む事で、理解が深まった。ということは、もっと僕らは勉強しなければならないことが、相手の立場に立って物事を考える練習をしなければならないことが、とてもよく判りました。

知り合いの女性にこういう人がいた。

彼氏とデートする時に、ハイヒールの中にティッシュを入れて一日歩いてほしいって言われたんですよぉ。なんで?と思ったんだけど、彼は、夜になって、そのヘナヘナになったティッシュを見てすごい興奮してるの。それをいつも持ち帰る。ある時、あまりヘナヘナになってないティッシュを見て「どうしてもっとぐちゃぐちゃに踏んでくれないんだ!」ってすごい怒ってた。怖くなって別れました。

知人女性の言葉

これも、そのうち

どうして別れるんだ!もっと理解してやれよ!

という事になるんだと思う。

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作成者: 宮川賢

何しろ、インプットを多くしないとアウトプットばかりだと枯渇しちゃうし、ヤバいのでまずは読書を。そのためにソロキャンプや旅行や仕事も頑張らないとなりません。なーむー。