大学生の時に心酔した清水邦夫さんがお亡くなりになった。
僕らが非情の大河をくだる時
僕が大好きなのは、「僕らが非情の大河をくだる時」だ。
詩人 なんて予感に充ち充ちた便所なんだ。このさりげないたたざうまい、かすかにただようなつかしい臭気、それでいて傲慢なまでの自己主張、そして日々あくこともなくくりかえす大衆との対話……いやいや詩人と時代のむすびつきとは、時代の反映者たることではない。詩人の役割とは時代の見えない部分と結びつくことだ。真の時代を発見することだといってもいい。え、文句あるか!夜は偽れる盛装をする。街もしかり。便所もしかり。彼の詩人はいった、満開の桜の木の下には一ぱいの死体が埋まっている。そしてまたまた、かの詩人がいった、夜の公衆便所の下には一ぱいの死体が埋まっている……
詩人の冒頭の台詞。僕は、観劇はしていない。新宿三部作というのは知ってる。確か1970年代なので、僕はまだ小学生かそこいらだ。
だが、大学に入って「アートシアター新宿(ジュク)」は知っているし、何度も観に行った。ああ、ここで、蜷川が。ここで蟹江敬三が。ここで清水邦夫が。と興奮したものです。
トイレが舞台
「僕らが非情の大河をくだる時」はトイレが舞台で。僕が最初に書いて上演した芝居も公衆トイレの一幕物だった。上演直後に「僕らが非情の~」を知り読んで慌てる事になる。
時代が生んだ演劇。それは今のそれもそうだろうし、当時のそれもそうだろう。
清水邦夫の演劇は、まだまだ「革命」とかいう言葉が武器になってキラキラ光っていた時代の話。演劇は戦いだった。今みたいにテレビ俳優になる為の養成機関みたいな様相は呈していない。その少し前の野田秀樹の言う所の「演劇はスポーツだ」ともまた違う。大きく違う。
だが、猛烈に熱く、面白い。その頃の、もっといえば、60年代のアングラ芝居を沢山観ておきたかったなぁと改めて思う。
演劇を観に行くのには、勇気が要る時代だった。演劇を観に行く人を異端視する時代。猫も杓子も演劇をフリーターしながら愉しむ人生の一時代という考え方で臨める今とは大きく違う。
そういや、村上ポンタ秀一さんも言ってました。
俺たちは「音楽やる」ってだけで親から勘当される時代だったからさぁ。
だそうです。演劇もそれに近かったのでしょう。僕もそうです。酷い言われようでした。なので、食えるようになっただけで「充分」であったし、バイトしないで演劇出来るなんてこんな幸せはない!と狂喜乱舞したもんです。
「楽屋」が最も上演が多いようだが
清水邦夫といえば、「楽屋」だけれど、僕はやはり、70年代の「長いタイトル」系が好きで。楽屋っていわゆる、少人数で小品だから、「採算が取りやすく」、興行的に見えるので、好まれるのだろうなぁと思われ。
いろんな物を書いてきた方なので、それはそれで良いのでありますが。だが、やはり「楽屋」を上演するプロデュース公演は、出演者が少なくて済むので、ギャラに集中投下しやすくて、集客力のある有名人を配する事が出来、予算を大きくオーバーすることがない良質な「興業」を打ちやすい……だからやってんでしょ?ってな風に見えてしまう(仕方ない)。
心よりご冥福をお祈りします
ドラマを書いたり、映画を書いたり、そういった仕事にはどういう気持ちで携わってこられたのかとかは、訊きたい所ではあるけれど、もはやお会いすることさえ出来なくなったので、諦めます。
「どけよ」は三人
でも、今週末公演の「どけよ」は三人の出演者ですけれどね。ちなみに前売りは「ビタ店」で。
絶版
今調べたら、清水邦夫の戯曲はほとんど絶版で、悲しかった。こうなるから、古書で売りに出すんじゃなかった!と今思う。マジ悔しい(仕方ない)。
ちなみに「僕らが非情の大河をくだる時」が公衆便所が舞台となったのは、蜷川と清水邦夫が二人で渋谷の宮下公園の公衆便所にロケハンに行ったらしい。
みんなこれを聞いて思う筈。
えっ?! 新宿じゃなかったんだっ?! ってね。
そうそう、つい最近まで、新宿の東口の地下駐車場は、ハッテンバだったものね。知らずに放尿しててよく覗き込まれたものです。