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神の手ゴールを恨まず

ディエゴ・マラドーナが他界。地球規模でショック。アルゼンチンは、全土で27日いっぱい喪に服す。だが、そんな中、神の手ゴールを決められたGKは未だ恨み節。

ゴールの定義とは?

 1986年のW杯(World Cup)メキシコ大会準々決勝で有名な「神の手」ゴールの被害者となった元イングランド代表GKのピーター・シルトン(Peter Shilton)氏は、「偉大さは持っていたようだが、スポーツマンシップはなかった」と話した。

AFP

でも、そもそも、ゴールって何さ?って話なんだけど、勿論、ゴールにボールが入ったら、なんだけど、その前に反則があれば、それはノーゴール。でも、それを反則と認めるべき人が認めなければ(つまり審判)、それはゴール。

その時はビデオ判定がないので、ゴールということ。そこに潔さを求めるのも違うし、納得がいかないのも解る。でも、サッカーの面白い所は、そういったライブ感にもあるのでね。

審判を「ファールを取りづらい空気」に包み込んでしまうという「神のオーラ」がそうさせた(ファールにしなかった)ワケでしょう? それがマラドーナだよね。

審判が目立ちすぎて「試合を盗む」という審判への悪口があるけれど、そうならない為に、スルーした方がいいだろうって瞬時に判断したのがあれだから。それを「ざけんな、手使ってんじゃねーぞ!」とファール!と声高に言えない気圧され方をしてたってことが、得点となって記録されたワケだよね。

日韓W杯の韓国のように審判買収してイタリア選手の頭蹴っても、何しても許されてグチャグシャの試合のようなもので勝つのが許されるのならば(あの審判即時クビになったよね)、

それに比べたら、「自分が得点出来る空気を作った」という、ある意味フェアな気さえする。ただ、明らかに「手は」触ってるよね(笑)。

そして、件の彼の言う「謝罪がない」についてだけど、

これまた、同じ理由で。

謝ってしまえば、アルゼンチン人全員から、マラドーナは叱られる。絶対に謝れないよね。謝った後であれば、剥奪するか?みたいな話にもなりかねないしね。

あの場で、白状するのでなければ、その後になって、「実はあたってたんだよねぇ」とは言えないよね。リバウドも胸にあたったボールを顔に当たったフリしてもの凄い痛がり方をして失笑された時があった(本人も「あれは恥ずかしかった」と認めてる)。

そうやって考えてみたけれど、そもそも、この考察そのものが無意味かもしれない。

なぜなら、

そもそも、マラドーナは、「触ったと思っていない」のではないか。

やっている最中は夢中になって、それに気付いていないのではないか?

そういうことだって、断じてあり得るよね。だって、あの場面で、だよ。

イメージトレーニング散々してるだろうしね。

自覚していた

だが、実は、マラドーナは自覚していた。なぜなら、「神の手が触った」と自分で言ったのだ。つまり神の手ゴールは自分が言い出したフレーズ。

しかも、1990年のワールドカップでも神の手ゴールを決めたマラドーナ。

しかも、最初の神の手ゴールの時、マラドーナは、他の選手に「早く来て俺を抱きしめないと審判が得点を認めないぞ!」と得点に歓喜せよ!と促したと自伝に書いている。

ワールドカップで勝つ為なら何でもやるさ

といった。

では、韓国の頭キックと同じか?

では、わざとやっているアンフェアな天才なのか?といえばそうでもない。マラドーナは言う。

あれは、マルビナスで殺された若者の敵討ちだ。

そう、ワールドカップ前のフォークランド紛争で、イギリスとアルゼンチンは「ガチで武力衝突(ほぼ戦争)」していた。

それを思えば「あれはハンドなので、点数なしでいーでーす!」とは死んでも言えない。

つまり、311後に優勝した楽天のまーくんの何倍かの責任とプレッシャーと夢が凝縮された形で詰め込まれたのがあのワールドカップでのマラドーナへのアルゼンチン人の思いだった。

マラドーナさんご冥福をお祈りします。

つまり、まとめ。戦争は駄目、絶対。って事。そして、そのフォークランド紛争があるから、今、日本は、実効支配してる竹島に対して、グッと堪えている。

ちなみに、この試合の副審は2017年に他界。次のようなコメントをしていた。

「ディエゴ・マラドーナは私の人生を壊した。彼は素晴らしいサッカー選手だ。だが、小さな男だ。身長も低かったし、人間としても(小さかった)」

ボグダン・ドチェフ
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作成者: 宮川賢

何しろ、インプットを多くしないとアウトプットばかりだと枯渇しちゃうし、ヤバいのでまずは読書を。そのためにソロキャンプや旅行や仕事も頑張らないとなりません。なーむー。