結局のところ、自分のご先祖様に対する気持ちが、いい加減であり続けた理由が、なんとなく理解出来ました。
宮古市がルーツと思いきや?
実は、決して「実家がフェリー乗り場」「海」というワケではなかったらしい。
金浜第四地割。
結果、岩手県下閉伊郡磯鶏村第四地割70番地、というところまで判った。だが、そこは、海沿いで、
6軒ぐらいの民家がある集落だった。隣に山があり、その中に墓があった。どうやらそこが自分の祖先の墓の場所のようだった。のだが。
調べてみると、うーん。
結果、ご先祖様なんて、どうでも良いや。って事に行き着いたのです。曾祖母が誰だか判らない。祖父は曾祖父に捨てられた。祖父は一人で北海道に向かい船で出会った人に紹介された仕事を始めて大成した。文字は読めなかった。等など。色々なことが、濃すぎて酔う。
お墓参り。
東京生まれだと、「田舎が欲しいなぁ」というのは小学校の頃に、よく思う話。
下町で生まれ育った石川よしひろサンも「どうして僕の家には田舎がないのっ」と親に泣きついたそうな。
夏休みになると、友達はみんな帰省する。帰省する場所がない東京生まれは、友達のいない夏休みを過ごす。
友達が田舎で捕まえてきたカブトムシと、自分がデパートでおやに買って貰ったカブトムシで虫相撲をする。だけど、デパートのカブトムシはすぐ負けちゃうんだ。弱ってるから。都会だから。田舎のカブトムシは元気なんだ。
そういうことを寂しいと思いながら大きくなるのが東京の子供。僕もそうだった。
それと別に「墓参り」というイベントに対する不思議な魅力も感じていた。田舎がある人は「墓参りをする」よね。だって、夏に帰るのは「お盆」だからでしょう? お盆は先祖様が帰ってくるんでしょう? それに合わせるんでしょう?
だが、僕は、お墓参りをしたことがない。先祖の墓がどこにあるのかも興味さえ持ったことがなかった。身近な祖母の墓も行ったことがない。
その「一人で生きて行く」というのが刷り込まれているらしい。祖父から。曾祖父から。親父から。そういう血筋なのだ。
神社仏閣への興味も薄く。
「宮川賢MT」とか「政国燦多朗スコやかAdventure」とかで色々な所へ行くけれど、その中にとりわけコロナ禍は神社が多かった。人がいないし、密にならないからね。
だけれども、まるで仏教にも興味がない僕は、行った所で、録音だけして帰ってくる事が多い。音が拾いたいから、という理由だけで、鐘を鳴らし、手を合わせる。賽銭を投げる。それだけの事。それを必要としない時は、詣でる事さえなく帰ってくる。
それは、そうね。自分には先祖がいないに等しい事も原因の一つかもしれない。
せめて人を信用しよう
なので、人を信用するということが、ほとんどない。まるで信用しない。誰であれ。
なので、色々な所でそれによる摩擦も生じる。
そろそろ、人を信用出来る人になりたいと思います……、

人は人を信用する為に生きているような気もするし、
人は人を信用する事で、心の安寧を得ているような気もする。

だが、どうしても「この人の言う事は信じてみよう」と思った相手に、手のひらを返されると、とても悲しいし、それを一度経験すると信じるのが怖くなるよね。

それでも、人は人を信じないといけないらしい。信じてるフリだけじゃいけないらしい。
言ったことを何度となく覆す人がいる。
あれだけ大見得切った事と正反対の言動をする人がいる。
それでも、人は人を信じないとならないらしい。

僕は今まで、人を信用しないで生きてきたし、
人に期待しないで生きてきた。結局、自分。それが頭にあった。

自分がどうしてそういう考え方だったのか?というのは考えた事がなかったけれど、少し腑に落ちた。

かなり偏屈だけど、自分がドライな性格であることにも合点がいくよね。だって、人に信用されないことに対して、本当に何も思わないのだもの。

おやすみ、スプーン
わたしのあの子はわたしを見すてて
どこへ行ったものやら、もうわからない
だからもうね、後生だからおやすみ
おやすみ、スプーン
(正津勉 / 詩集『おやすみスプーン』より引用)