俺の名はどどんが。人呼んで「乗らないライダー」だ。いや、正確には誰も呼んでないので、人呼んでという言い方はおかしい。人呼ばず「乗らないライダー」だ。乗らない事は究極のバイク愛だと思ってそうしているワケではない。ただ、成り行きで乗らない道を歩む事になった。
俺は犯罪を犯してはいない。しかし、服役している気分だ。いや、正確には「保護観察中」の人の気分に近いだろう。保護観察中と書いてもいいところをカギ括弧をつけてしまったのは、ラジオで喋る仕事を長く続けている為かもしれない。口語が大好きな俺は「ただ言う」だけではなく文章で言う所の傍点をつけて話す、そこだけゴシック体に変えて話すということを手法として使う。それは文章において文字を大きくしたり出来ないものを漫画の吹き出しのように演出するような感覚だ。その声の強弱やテンポなどで同じ言葉を違う意味合いで用いられる時間芸術としての利点をフル稼働している為に、何かとカギ括弧をつけて書いてしまいがち。それを許して欲しい。
なぜ「保護観察」中かというと、服役していないのに服役していると同じぐらいに反省しなければいけない立場であり、気持ちを引き締めていなければいけない立場だからだ。交通違反で百五十日免停。それが今の俺の置かれた状況だ。スピード違反は言い訳が出来ない。まぁ、出来るけどしてもかっこいいものではない。最後に3点を切られたのは圏央道を鶴ヶ島から八王子方面は走る中だ。ここは何故かモタモタ走る車が多いので、まとめて追い越し車線で抜いては走行車線に戻る、ということを常々してる。その日は追い越し車線を長く走りすぎたようで、走行車線に戻った時には隣で警察官に呼ばれていた。
前歴二回で免停解除になってすぐに一点切られていたので計四点、これにて百五十日免停が確実になった。しかし、五点で免許取り消しだったので首の皮一枚で繋がったと喜んだ方がいい。免停解除になってすぐ切られたのは青梅街道でバス優先道路だと思っていたのが「バス専用道路(の時間帯)」だった。前に車が走っていたのだが、そこに続いたものの、それらの車は左折をして直進した自分は即切符を切られた。切符を切られたというのは重複しているのだろうか。符を切られたというのが正しいのか。まあいい。ともあれ、何十年と車に乗り続けていても慢心してしまうらしく気持ちは雑になり、一時停止は後ろからクラクション鳴らされるぐらいしっかり停まっていようとも、踏切の前で停まる時にしっかり窓を全開にして助手席に座る知人に爆笑されようとも(踏切で窓開ける奴初めてみた。ぶひゃひゃひゃあああっ!)、ふとしたイレギュラーな事態に対応出来ずに違反をしてしまう。意識していない事が全てなので、ある意味ことさらよくないとも思える。
今は、免停通知書類が届くのを待っている身だ。しかし、それを受けて出頭して処分者講習を受けて短縮される流れに乗る前は、いくら「乗る権利」があるからとはいえ、もはや乗れない。なぜならあと一点でも追加されたら「免許取り消し」になってしまうからだ。逃亡者の気持ちとはこういうものなのかもしれない。早く捕まえて欲しい。その方が気が楽になる。といったような。そしておそらく届くであろう免停通知が届いたら、介護に疲れた妻が夫の死の後にほっと安らぐような気分になりそうだ。
だが、俺が乗らないライダーである期間はそこまでではない。まだまだ先は長い。