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150日免停まで

(#056)儀式をすませたぜ。

俺は乗らないライダー!
No Run! Night-Rider!
儀式をしたら、最初、エンジンが
ぎくしゃくしてたぜ。
悲しいかな、もっとアクセルを
ふかしてやりたいけど、
我慢したぜライダー!

つらいが、今日も14分ぐらいしか


エンジンはかけなかった。でも、ちょっとだけ
跨がってみたぜ。それはそれで、「ああ、やはり乗りたいなあ」と思ったものの、早く「通知」が来ないかなぁと思うことしきり。
中村誠主将の中学時代の作文が胸を打つ。障害者に対して「かわいそうだと思う自分に腹が立つ」この話は多くの人の胸にぐさりと刺さるだろう。なぜだか、健常者は障害者を「見下ろしている」。そこに差はない。なぜ、障害者は見下ろされなきゃいけないのか。
被災地に対して「がんばってください」という無責任な発言や考え方も同じだ。難しいかもしれないけれど、相手の身になって考えてみなくてはいけない。その想像力が豊かでないとならない。わからなければ早合点して進めてはいけない。いろいろ学習することがあります。


~平成23年度入賞作品~
【中学生部門】最優秀賞
「友から学んだこと」
中村 誠(福岡県・糸島市立志摩中学校3年)
僕には、絶対叶えなければならない夢があります。僕には体に障害を持った友達がいます。体の右半分はマヒしていて、右手はブラブラしていますが、右足は少し動くので介助すると歩くことができます。
えん下障害もあるので食べ物は細かくきざんだ物にとろみをつけて介助でゆっくり食べれます。水分は多く飲めないでお腹に開けた胃ろうからチューブを通して注入します。
それから失語症もあり全く声が出ません。文字盤も使えないので自分の意志を伝えることはできないのです。とても不便な生活を送っています。
その友達と知り合ったのは僕が小学五年生の頃、四年前です。僕が野球の試合に出るようになり、対戦相手だった子と友達になった。
その子は同級生と思えないくらいに野球が上手だった。ポジションも一緒だった。試合にも負けた。僕はとても悔しかった。
「絶対に負けたくない」この気持ちを胸に僕は一生懸命練習した。小学生の最後の大会の決勝戦でそのライバルのいるチームと戦った。延長戦で僕のチームが優勝することが出来た。
でも僕は勝ったとは思えなかった。だから中学生になっても別のチームで戦っていくことを約束した。しかしその友達といるチームとの試合があっても友達はいなかった。
友達は障害者になっていました。障害者になって三年になります。三年前のある日を境に突然障害者になってしまったのです。原因は病気です。本当に急な出来事でした。当時僕は大きなショックで友達を受け入れることができませんでした。
そんな友達を見て、初め「かわいそう」だと思っていました。でも一生懸命にリハビリに取り組んでいる友達の姿を見ていると、僕は「かわいそう」と思うのは良くない事だと思うようになりました。なぜかというと、人に対して「かわいそう」と思うことは、その人を見下しているように思ったからです。
友達は障害を持ちながら一生懸命に生きているのに、上からの目線はごうまんで大変失礼なことだと思いました。このことは友達に対することだけではなく、全ての障害者に対して共通する気持ちです。障害者になりたくてなった人は誰もいません。そして誰もが障害者にならないという確率はゼロではないのです。
友達のように突然、病気になるかもしれないし、事故にあってけがをしたり、またどんな災害に出くわしてしまうかもしれません。もし僕がそうなったとしたら、想像するだけでもつらいことですが、そんなとき僕は人から同情されたくないと思います。
「かわいそう」と思われたくないのです。人間はどのような障害を背負っていようとも、命ある限りは生きていかなければならないことはみんなに平等に与えられていることです。
ただ生きていくための条件が良いか、少し悪いかという差だけのことだと思います。だから僕は障害者を見て「かわいそう」と思うことが許せなくなりました。
僕はお見舞いに行くと友達の車いすを押して出かけることがありますが、よく他人の視線を感じることがあります。自分と違う人を見ると違和感を持つ人が多いのだと思います。
でも自分と人は違っていて当たり前なのだし、その他人を認めることは最も大切なことだと思います。世の中のすべての人が自分と違う他人を受け入れることこそ、差別のない社会の実現につながっていくように思います。
友達のためにも、僕は野球を一生懸命頑張りプロ野球選手になり活躍します。

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「(#056)儀式をすませたぜ。」への1件の返信

目線というのは本当に難しくて、私もそんなことをつらつら考えていたところでした。
中○愛ちゃんの今夏のイベントに軽度の知的障害の人が来ていて、僕とは何度か顔を合わせているので普通に話せるのですが、3人目が入ってくると途端に緊張しちゃう。顔つきがこわばって、パニック寸前になるみたいな感じですね。
そんなふうに状況の変化への対応が苦手であったり、他にも抽象的な物事を考えるのが苦手とかいろいろあるみたいですが、そういった障害の特性への理解なしに、健常者とまったく変わらないものとして接することは、果たして本人にとっていいことなのだろうか?
障害を考慮することなく普通に接するということは、場合によっては歩けない人に歩けと言ってしまうような話になりかねず、それって本人にも、あるいは回りの介護者・関係者といった人たちにとっても迷惑な話なんじゃないか。
「完全に普通に接すること」は、実はそれこそが傲慢な態度なんじゃなかろうか。
それって偽善じゃね? みたいなことを、なんか考えてしまいましたね~。
いろんな人が来るからなのか、本人の口から障害があると聞かされても、障害者手帳を見せられても、平然としている愛ちゃんは、実は僕らが思っているより肚が座っていて、他人に寛容で、そしてどこまでも優しいのかもしれませんね。
大勢のファンの中の、めんどっちい方に入る1人なのに軽くあしらおうとせず、「級とかあるんでしょ。何級なの?」っていって手帳見せてもらって、相手の状況を知った上でそれでも丁寧に接する姿を見ていて、涙が浮かんだのですよ、ワタス…。

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