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150日免停まで

(#001)8/15と8/16

八月十五日といえば終戦の日。しかしポツダム宣言を「黙殺」と表現したのは朝日新聞であり、鈴木貫太郎は「黙殺」という単語は用いていない。軍の反応を大きくさせない為に多少強気に出る必要があったらしく「ネグレクト=放っておく」という方向で対応したらしい。それは、敵性語を使わない為に「ノー・コメント」と言えなかった事も手伝い、新聞社では「笑止(毎日新聞、他)」「黙殺(朝日新聞)」という表現に繋がった。それがヒロシマ・ナガサキへと繋がるきっかけになったと言われているが、トルーマンはどのみち原爆の効果を実際に試したかったので、そのあたりの責任が貫太郎にあるとも朝日新聞にあるとも言えないらしい。時代によって解釈はねじ曲げられ、その時代の解釈が生まれるだろう。意見は分かれる所だが、乗らないライダーはそのように思っている。


だが、俺にとっては八月十六日という日の方が印象として大きい。ここ十ヶ月というもの、決して一日たりともこの日を忘れた事はないし、二〇一四年のこの日を待ち詫びない日はなかった。しかし、もはや待つ必要はなくなってしまったのだが。
二〇一三年八月十六日は、俺が六〇日免停が開けてバイクに乗り始めたものの、何しろ注意深く「切符は切られまい」としていた時期にも関わらず一点切られてしまった日だ。「プロローグ」で記した通りの青梅街道でバス優先道路と勘違いしてバス専用道路(の時間帯)を走ってしまい即時青切符を受け取る。
戦時中は赤紙を受け取る事に微妙な心理があったろうが、この青紙は何も尊いものはない。ただ迷惑なだけだ。ポツダム宣言も受諾したものの途中で「無条件降伏」に変えられてしまった不愉快があるが日本という国は潔すぎる為に丸呑みした。この青紙も丸呑みではなく逆らってもいいのだが、まず間違いなく覆らない。記録はとっているししっかりと違反を取る為に用意された複数の警察官によりシステマチックに切られる。
俺も、素直に切られたが、その時も今と同じぐらい意気消沈したのを覚えている。免停期間が明けてバイクも車も運転出来るようになったにも関わらず、山梨放送への移動は「車」ではなく「電車」にしようとして横揺れが乗り物酔いしてしまう「スーパーあずさ」であることを解った上で電車移動を選んだ。そして、新宿駅までバイクで行こうと早めに家を出てゆっくり進んでいたら切られたのだ。なんという不運。なんという馬鹿。
前歴二回なのに一点を切られてしまったらあと一点しかないではないか。二点で九十日免停なのだから、しかも免停を食らえば前歴三回になってしまうのだから、もはやあとがない。この後二〇一四年の八月十六日までは絶対に違反をすまい、そう誓って車とバイクと向き合ってきたのだ。しかし、六月二十日にサッカーのワールドカップブラジル大会の日本戦を最後まで見てから山梨へ出発した為か多少の焦りがスピードを出していたのだろう、多少の焦りが追い越し車線をいつもより少し長く走らせてしまったのだろう。
あと、一ヶ月少しで前歴ゼロのさらな状態に戻れたにも関わらず、俺はやっちまった。それが乗らないライダーの始まりだった。
俺は乗らないライダー。No Run ! Night-Rider!心に誓うぜ。乗らないぜ。
免停なのに新車がもうすぐ納車されるぜ。No Run ! Night-Rider! だけど乗らないぜ。免取だけはまっぴらゴメンだぜ!

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