アニエスを悼み「5時から7時までのクレオ」を観る夜。

「人生に必要なのは、パソコンとカメラと猫ね」
(アニエス・ヴァルダ)

ヌーヴェル・ヴァーグの祖母が90歳で他界。それを受けて、いてもたってもいられず、代表作を見たらやはり感動した。

映画の役者は映画だけで会いたい話

喫茶店での鏡の使い方が美しく。オッパイがとがっているようにしか見えないクレオが可愛らしい。

ストーリーを急がない。ラストにどうなるかが解ってる物語ではない楽しさ。

女優の顔がいろいろな事を想像させる。小説だとそれを描写するし、それが楽しいのだけれど、映画だと簡略化される。その行間を読む事が出来る映画ならまだいいけど、そうではない映画が多いので、小説を優先しちゃう僕。

行間が読める、というのは、選ばれた女優は、その作品の為だけに存在している事が望ましい。

なぜ、この女優を選んだのか。なぜこの女優はこういう演技をしているのか? それにより、行間は読めてくるし、それを読むのが楽しい。読むというよりは、伝わってくるというのかな。

行間が読めないってのは、ただの有名人を配した作品の場合。

客寄せパンダとしてキャスティングされた人なのだろうと思うから、いわゆる「ただのイケメン」とか「ただの美女」とかにしか見えず、人形以下に感じてしまい、演技がその作品で特別な事をしていれば、そしてそれが奏功していれば、読める(伝わる)けど、そうではないのではないか? と思えてしまうと、それは楽しめない。

もしかしたら、この時代に生きてこれを見ていたら、行間が読めない作品なのかもしれない。しかし、今見る僕は、楽しい。そして、映画は本来、そうあるべきだ。作家は、無数に登場人物を出せる。作品毎に主人公の顔が違う筈だ。しかし、売れてる役者、客を呼べる役者が限られている(とりわけテレビ大好きな国民がひしめく国の)映画は、

小説家の描いた世界を矮小化してしまう。なので、小説の映画化を見るのも好きではないし、漫画が原作のものもそれだけで二の足踏む。

そんな中、この女優は、美人だけど、偏屈でそれが顔に出てる。なのに、かわいげもあり、もろくスタイルもいい。若くはつらつとしている。魅力的。

物語は、主人公の歌手クレオが、医者の診察を受けるまでの5時から7時までの悶々とした時間を描く。自分は重い病なのではないか? と思い込み、どんどん塞いでいくクレオ。

下手に二時間も時間があるから悩むのだ。その女性の2時間を描いた作品。

これだけ聞くと、なんだか地味だなぁと思うでしょ。

ストーリーが地味なのに面白い映画ってのは「本当に面白い」と思いませんか?
純文学でページターナーなんて聞いた事ないでしょ。ゆっくり読みたいのが純文学でしょ。同じと思うよ。

なんてご託宣はさておき、本編について。

ヌーヴェル・ヴァーグの左岸派

左岸派。所謂ヌーヴェル・ヴァーグ。なぜ左岸派というのか。

フランスのセーヌ川の右岸に有名映画批評誌の事務所があった。それの反対に集まっていたのが左岸派。右岸派にはジャン=リュック・ゴダールや、フランソワ・トリュフォーがいる。左岸派には、アニエス以外には、アラン・レネ、ジャック・ドゥミ等。右岸派、左岸派合わせて「ヌーヴェル・ヴァーグ」だ。

5時から7時までのクレオ

自分は癌なのではないか、と思い込み、不安になる歌手のクレオ。女という生き方と社会における女性の位置づけを少しずつ暴きつつ、死をいう絶対的恐怖の象徴を大向こうに据え置いて、美女の「見られ方」や存在意義。自分探しと友情と友情だと思っていたものの破壊や虚無感とか。まぁ、色々なものをなーんてことない流れの中にシレッとギューギュー詰めにして描いているのが本作。という見方をする必要はない。くみ取る事が出来るしくみ取らない事も出来る。

僕は、作者の意図がありとあらゆる所にあるのではないか?と穿って観ているから、濃く楽しめてしまった。どうも悪いね。

魅力が詰まってて。

色んな魅力が本当に詰まっててね。

例えば、鏡。何度となく出てくるんだけど、それが何を表しているのかは解らない。ネットで調べれば何か出てくるだろう。でも、それは「考察」されたものなので、結論かどうかは解らないし、ハッキリ伝わらないものなら伝わらないままでいい。僕は母親に感謝している事があって、

「文庫本で小説を読む時に、読めない漢字が出てきたからっていちいち辞書を引いて読むような作品に失礼な事をしなさんな」

と小学生の時に言われた事だ。今もその通りだと思う。いいから読め。ってね。同じ事。

鏡は勿論「鏡」だよ。そうやってこの映画を観れば解るよ。主人公の心象風景とかを考えれば、色々見えて来る。それでいいじゃないか。

とても魅力的。

他にも、沢山のアイデアが満載で、濃い。ゴダールが出ていると噂のトーキー映画も面白いし、チャプター分けも単純なのに素晴らしい。見やすいのに深い。なんとなく進んでいくようなのに、重くのしかかるものがある。観れば観る程深くなる。

筋を言ってしまえば、重篤な病なのではないか?と自分が占いで出た結果に右往左往して振り回されている中、医者に検査結果を聞きに行くまでに悶々としている様を描く。モタついていたが、それまでの人間関係が如何に空虚なものだったかを思い知る、というよりぼんやり理解させられる。だが、公園で出会った青年とは、何故か打ち解け合い、会話が弾む。素直な自分が出せる。そしてその彼に牽引されて「医者に結果を聞きに行く」。そして。

という具合。ヌーヴェル・ヴァーグなので、こういう外枠を紹介した所で、まるでネタバレとは思わない。

公園で青年と出会ってからの短い間、クレオの顔に憂いが消えていく様子が映画ならではで秀逸だ。ただの美女って感じだったお人形さんポジションの歌い手が、一人の女性としての自我に目覚めるようなプロセスはハートをわしづかみにされる。

台詞がいちいち素敵

女性は愛される自分を愛してる。

好奇心はあるけど、怠慢でね。

暗く見えたのは眼鏡のせいだ!

腕に針を刺していた男がいたわ。

・・・ああ。もっともっと、書き留めておけばよかった。本当に細かい台詞の全てが素敵でカッコイイ。メモりながら観るのは、辞書引きながら読む小説より味気ないからなぁ。ブログの為に観る愚かなヤツにはなりたくないし、作品は純粋に楽しみたいものね。

だから、覚えてる台詞が少ないのは許してぽちぃ。

5時から7時までのクレオ
「5時から7時までのクレオ」アニエス・ヴァリダの初期の名作。心よりお悔やみを申し上げます。

まとめ

最近の映画にも沢山面白いものはあるんだけど、体験出来るものがないように感じて。題名は敢えて出さないが、面白そうだなぁと感じる邦画も沢山あるのよ。でも、そこに出てる人が、全部何かのイメージがついてる役者だから、なんだろうなぁ新作なのに、既視感が強くてみたいと思わない。ああ、あの手ね。みたいなね。

例えば「火星の人」ってネット小説が「オデッセイ」って映画になって、宇宙に取り残されるといえばでお馴染みのマット・デイモンが主役を演じてしまったら、原作読んだ身としては、絶対に見たくない映画になっちゃうわけさ。

実際に、見た人に聞くと、次の最も特徴的爆笑エピソードが映画には入ってないらしい。

「さあて、僕のテーマソングを決めようと思うんだ。だって、火星に一人で残されてるんだぜ」

という独白のもと、宇宙船に残されたCDを順番に聞きながら一人でテーマ曲を決める下りがあるんだけど、声出して笑ったのね。口調もテンポがいいし、火星で一人なのに、やけくそになってそんなことやってるし。その非常事態を陽気に過ごそうとする様子が本当に面白いのさ。「アローン・アゲインはやっぱり、やだなぁ~っ!」は声出して笑った。

そもそもこの小説は爆笑しながら🤣🤣手に汗握るもの。

そんな僕だから、日本の映画に出演している役者さんでも興味があるのはオダギリジョーぐらいで、それ以外だと、既視感しかない。

菅田将暉は「そこのみにて光輝く」で大好きになってね。あー、こんなイイ役者が若い人で飛び出したんだぁ、素敵だなぁ、と思ってたけど、めちゃんこ人気物になってしまうと、色々難しい。

バラエティとかも出ちゃうから、タレントに成り下がっちゃって、今後彼が演じているものを見ても、世界に入って行けそうにない。

有名人を使うってことは、そういうデメリットがあるのだから、ということを理解して、それを埋めようと、猛烈に個性的な世界観を構築する努力をする監督がいればいいけど、そうでもない。いや、いるのかもしれないけど、あまり探そうとしていない。ゴメンナサイ。それよりは、アニエス・ヴァリダとか見ちゃう。

なんて言ってるわりに他界したから慌ててみたので、なんとも言えない。結局それって、聴いてなかったラジオが終わる時に「最近、聴けてなかったけど、なんだか終わるの悲しいなぁ」と言うのと近いな。そもそも「聴けてなかった」という言い方が「不可抗力で」と責任転嫁してるみたいで「本当は聴きたかったんだけど」を匂わせる詭弁であまりいい言い方ではないと思うしね。

で。結論。体験出来たよ。映画らしい体験を。すんげーパワーを感じて嫉妬するよ。

アニエス・ヴァリダ「顔たち、ところどころ」見たいぜ

これも観たいと思ったよ。だって、祖母だよ。俺5歳の時に「おばあちゃん、男、女どっち?」って訊いたし(関係ない)。

映画「顔たち、ところどころ」の予告篇で
JRが訊いてる「死ぬのは怖い?」って。
それに、アニエス・ヴァリダは。

投稿者:

Miyacolor

まぁ、なんとなく楽しく生きていますよ。それで十分でありながら、それでいいのか?って自問自答する日々ですかね。